I don't need to close my eyes to dream
Dreams;
Surreal with upside down ceilings
Walking fish and a manner of things.
I don't need to close my eyes to dream.
from vacascom
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Dreams;
Surreal with upside down ceilings
Walking fish and a manner of things.
I don't need to close my eyes to dream.
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押井守監督の映画「スカイ・クロラ」を観て原作の方にも興味を持ち、森博嗣の小説「スカイ・クロラ」も読んでみました。
小説の方は本編5冊+短編集1冊の全6冊なのですが、まず1冊目の「スカイ・クロラ」を読んでみました。読んでいる途中では、映画の映像と小説の描写から思い浮かぶ映像が同じなのに感激。小説を読んでいると映画のシーンが目の前に浮かんできます。これはちょっと今までなかった体験でした。
映画の方は、地上に降りたときのぼんやりした現実感のない世界の映像と、空に上がったときのダイナミックで美しい映像の対比が印象的だったのですが、それが小説の文体に明確に現れているのに驚きました。空に上がったり、空中戦のときの描写は短い文や単語がテンポよく改行されて、地上部分の重苦しい描写と対照的。この描写の違いをあんな風に映像化したのかと改めて感心しました。
「スカイ・クロラ」を読んでいる途中では、表面的なストーリーの流れがよく似ていることもあり、小説と映画の類似点が目につきました。しかし、「スカイ・クロラ」を読み終わる頃にはその印象はだいぶ変わり始めていました。
これまで、森博嗣の小説を読んだことはなかったのですが、「スカイ・クロラ」にはすっかりハマってしまい、文庫本でシリーズ5冊を全部揃えました。表紙がつながって一枚の絵になっています。表紙がつながっていなかった1作目は買い直しました。すっかり術中にハマっていますねw
小説を最後の「ナ・バ・テア」まで読んでみたら、映画のときとは感想が180度変わった気がします。映画のほうは、小説と表面的なストーリーはよく似ていながら、表現している内容はまるっきり違いますね。押井守のいつもの手法という気もしますけれど、長大なストーリーのあちらこちらからエピソードを引用してつなぎ、元のストーリーとは別の話を組み立ててしまいます。
映画を観たときには、キルドレは今の若者の性質を端的に表していて、彼らを励ます映画という感想を持ちました。タイトルバックのあとのエンディングシーンなんかそういう感じでしたよね。キルドレはあくまで私ではない他の人のことであって、自分に重ねて観るということはありませんでした。
しかし、小説を5冊読んだあとではその感想はすっかり変わってしまいました。時間を逆にたどりながら、キルドレをとりまく世界や状況が明らかになってゆくストーリーを読みすすむにつれて、キルドレの感じる世界に対する孤独を自分のことのように感じるようになりました。これは、やはり作者が表現したいことの違いを反映しているんでしようね。
しかし、こんなに入れこんで小説を読むのも久しぶり。栗本薫の小説を初めて読んだ「ぼくらの世界」やグインサーガの最初の頃以来だと思います。どんどん読めてしまうのですが、なんだか読み進めてしまうのがもったいないような気がするくらいでした。
つぎは、あと1冊、まだ読んでいない短編集の「スカイ・イクリプス」を読んでみようと思います。これで世界がどんな風に広がるかな。

秋晴れ。空が水色で高い。きれ~。
こんな空をながめてると、なんだかオセンチになる。
ヒトが生きていくのに必要なものってなんだろ?
少しの食べ物。少しのきるもの。
雨風をしのぐお家。
それ以外に必要なものってあまりない。
それらはすでにもっているし
それで満足できたらいいのに、なぜかできない。
不思議。
『もっともっと』
すばらしいヒトの知恵・向上心。
もっと良くなろうとする力
便利さに豊かさに進んでいこうとする力には限りがない。
そして、伴って生じる欲も限りない。
すばらしい知恵をもっているのに
コントロールの効かない妬みや恨みの負の感情は常に付きまとう。
動物や草木のような無垢さやシンプルさは、
知恵を持っているヒトには、もう求められないんだろうな。
そう考えると
むか~しむかし、そのむかし
アダムとイブが食べた、赤い果実は
本当に禁断の果実だったのかもしれない。
携帯文化ってなんだろうか?(この言葉時代大人の決めつけだとは思うのだが)
ようは携帯しか使わない人たちがつくりだした文化なのだろう。
Dear Diary,
I woke, I ate, went to work, came home, ate, slept. I don't want to talk about it.
Dear Diary,
I sometimes think of the future, and what it holds. I can't write anything about it.
Dear Diary,
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